あんぱんの考案者で桑名藩出身の木村安兵衛
東京銀座の名物のひとつに木村屋の「あんぱん」があります。
日本で初めてあんぱんを考案したのが木村屋總本店の創業者木村安兵衛(1817~1889)です。
しかし、木村安兵衛が桑名藩に仕えた人物であることはあまり知られていません。
意外にも、あんぱんの考案者は桑名ゆかりの人物だったのです。
明治天皇に献上された酒種桜あんぱん
桜が乗せられた酒種桜あんぱん
明治8年(1876)4月4日、水戸徳川家小梅邸(東京都墨田区向島、現在の隅田公園)に花見のために行幸された明治天皇と皇后の両陛下に対して木村屋の酒種桜あんぱんが献上されました。あんぱんのへそには、大和の吉野山から取り寄せた八重桜の花びらの塩漬けが乗せられていました。あんぱんを口にされた皇后がおおいに気に入り、天皇は「引き続き納めるように」と命じられて、木村屋は皇室御用達となりました。
あんぱんを手配したのは旧幕臣で宮内大丞をつとめた山岡鉄太郎高歩(号は鉄舟)で、木村安兵衛の妻ぶんの弟定助の友人でした。また、安兵衛とも剣術の稽古を通じて面識がありました。山岡鉄舟は前年にあんぱんを試食して以来、大好物になっており、献上の仲介役をになってくれたのでした。木村安兵衛と山岡鉄舟の交流は続き、銀座の木村屋本店にかかげられた看板「木村家」も揮毫(きごう)しています。ただし、現在の看板は複製で、原物は関東大震災で店舗とともに焼失しています。
平成13年(2001)、完成したあんぱんが明治天皇に献上された4月4日を日本記念日協会は「あんぱんの日」と認定しました。
山岡鉄舟が揮毫した「木村家」の扁額
木村屋總本店の2代目 木村英三郎
あんぱんの考案者木村安兵衛は文化14年(1817)6月20日に常陸国河内郡田宮村(現在の茨城県牛久市田宮町)で長岡又兵衛の二男として生まれました。天保10年(1839)頃、下総国北相馬郡川原代村(現在の茨城県龍ヶ崎市川原代町)の木村安兵衛の娘ぶんの婿養子となり、安兵衛を襲名しました。その後、家督を長男芳之助に譲った安兵衛は妻ぶん、二男英三郎、三男義三郎、長女つねを伴って江戸に出て、親戚の旗本木村市三郎重義の世話で桑名藩に仕えることになりました。江戸に出た時期については文久3年(1863)、慶応元年(1865)などの説がありますが、桑名藩に仕えた安兵衛は江戸屋敷の米蔵番をつとめたといいます。安兵衛が仕えた時代は、まさに桑名藩が崩れ行く江戸幕府を必死に支えるべく、藩主松平定敬自身が動乱の京都に赴いた時期にあたります。
※木村安兵衛が桑名藩に仕えたことは『木村屋總本店百二十年史』には記載がありませんでしたが、以下の資料に記載があり、参考としました。
栗原功 「歴史読み物 昔の牛久 あんパンの考案者 木村安兵衛(2) そのあんパンを明治天皇に献上」 『広報うしく 第901号』所収 牛久市情報政策課 2005
冨山章一 「わがまちが生んだ偉人 木村安兵衛」 『筑波経済月報2018年4月号』所収 筑波総研株式会社 2018
明治期の広告
屋外での宣伝広告の様子
江戸幕府が崩壊して桑名藩が新政府軍に敗れると安兵衛は職を失い、明治2年(1869)に文英堂を創業します。日本初のパン屋の創業です。明治3年(1870)には屋号を木村家に改め、明治7年(1875)には銀座に店を移します。そして明治8年(1876)にあんぱん、明治33年(1900)にはジャムパンを考案しました。しかし、関東大震災によって店舗が焼失したことから、昭和2年(1927)に現在の本店所在地に新しい店舗を新築しました。昭和5年(1930)には株式会社木村屋總本店として法人化し、昭和46年(1971)に現在の本店が完成しました。なお、本店は「銀座木村家」とし、本社は築地、西新宿を経て平成22年(2010)に現在の江東区有明に移転しています。
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